正信会

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御三祖の生涯
日目上人の御生涯

お誕生

三祖・新田卿阿闍梨日目上人が誕生されたのは、文応元年(1260)のことです。時あたかも日蓮大聖人が『立正安国論』を鎌倉幕府に献上され、鎌倉で大いに活躍されていた時期でした。さまざまな因縁によって、日目上人はその献上の年に誕生されたのです。

日目上人は伊豆国仁田郡畠郷(現在の静岡県田方郡函南町畑毛)にて、父を奥州三迫新田太郎重房の嫡子・重綱、母を南条兵衛七郎の娘・蓮阿尼とし、その五男として生誕され、幼名を虎王丸(とらおうまる)と名付けられました。

最古の伝記である大石寺6世・日時上人の『日目上人御伝土代』によると、父方の新田氏、母方の南条氏は、ともに「御家人(ごけにん)」とよばれる武士の家系でした。

母の蓮阿尼は、後に大石寺の開基檀越となる南条時光の姉です。また、兄の頼綱は、後に富士門流(日興門流)最古の寺院である本源寺(宮城県登米市)を寄進し、その次男は後に大石寺4世・日道上人となられます。

このように、新田・南条両家は、名僧や篤信者を多く輩出した一族でした。

初等教育

文永元年(1264、5歳)の時、父・重綱が亡くなります。文永9年(1272、13歳)、虎王丸は修学のため走湯山・円蔵坊(いずさん・えんぞうぼう)に登ります。走湯山の歴史は古く、応神天皇の時代に、松葉仙人(まつばせんにん)が、ここに権現を祭祀したことから修験道の霊地として栄え、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が篤く信仰したことも、走湯山がいっそう栄える要因となりました。最盛期には塔中(たっちゅう)が五百坊もあったといわれ、虎王丸の学んだ「円蔵坊」もその一つに数えられています。

日興上人との出会い

文永11年(1274、15歳)、虎王丸は日興上人と出会う機会に恵まれます。文永11年は、日蓮大聖人が流罪地の佐渡から戻られ、身延に入山された年です。佐渡流罪にお供されていた日興上人は、身延入山後、様々な地域へ弘教に回られ、伊豆方面にも足を伸ばされます。その際、走湯山に能筆の稚児がいるとの話を聞き、走湯山を訪れ虎王丸と対面されました。

最古の伝記である大石寺6世・日時上人の『日目上人御伝土代』 は、「文永11年(1274)、十五歳の時に日興上人にお会いして、法華経の教えをお聞きして、即時に理解して信心を深められた」(意訳)と記しています。

日興上人は、走湯山で随一の学匠とうたわれた式部僧都と問答することとなり、理路整然と破折されました。その様子を見ていた虎王丸は、日興上人を師と仰ごうと決意されるのです。同年中、虎王丸は日興上人に伴われ、深山幽谷の身延山へ登り大聖人と対面をされています。

身延山へ登る

建治2年(1276、17歳)、虎王丸は日興上人を師として出家得度し、名前を「日目」とあらためます。同年11月、身延へ登った日目上人は大聖人に常随給仕し、厳しくも充実した修行の日々を送られるのです。

現在、日目上人のお姿を伝える 「御影(みえい)」 が有縁の寺院に伝わっていますが、どの「日目上人御影」を拝しても、頭は平らに描かれているのです。

このことについて、左京阿闍梨日教師(1428~?)の顕わした 『五段荒量(ごだんあらまし)』 には 「日目上人は修行によって頭が平らになられた」 と簡略に記しています。

また大夫阿闍梨日我師(1508~1586)の 『申状見聞私(もうしじょうけんもんし)』 は、日目上人の修業時代について 「昼は頭に水木をのせて水汲みをしたため、頭がくぼまれた」 と伝えています。

現在に伝わる「日目上人御影」は、日目上人の修業時代当時のお姿を私達に偲ばせてくれるのです。

耳引き法門

日目上人の身延山における修行生活について、確実な史料からは詳細を知ることはできませんが、断片的に三つの事項が知られています。

一つ目は、入山から2年後の建治3年(1277、18歳)、大聖人の講義録である『聴講見聞録』をまとめられていること。

二つ目は、弘安2年(1279、20歳)2月、直接の師匠である日興上人からの願い出により、大聖人から御本尊を授与されていること。

三つ目は、弘安5年(1282、23歳)正月1日、大聖人から御法門の相承をされていることです。このご法門は日目上人の「耳引き法門」として伝えられています。

大石寺第9世・日有上人の『雑々聞書(ざつざつききがき)』によると「耳引き法門」は、大石寺第6世・日時上人の『四帖抄』に収められており、三大秘法について説かれたものだとされています。

「耳引」の語意は今ひとつ判然としませんが、左京阿闍梨日教師の『類聚翰集私』は「大聖人が日目上人の耳元でささやかれた」と解釈しています。

伊勢法印との問答

弘安5年(1282、23歳)9月、大聖人は療養のため身延の山を下りられ、武州池上(東京都大田区)に向われます。

池上宗仲殿の館に到着された大聖人はそれ以上足を進められず、日に日に悪化する病状を案じて弟子・檀越が池上邸に参集しました。さらに他宗の僧侶も、大聖人と問答をしようと押しかけてきたのです。

しかし、大聖人は落ち着いたご様子で、まだ23歳である日目上人に「問答せよ」と命じられました。日目上人は、他宗の学匠を相手に、大聖人のもとで培われた御法門を遺憾なく発揮されます。

『日目上人御伝土代』は、武州池上(現在の東京都大田区)にて行われた日目上人の問答について、次のように経緯をつづっています。

大聖人が身延から池上に入御されるに際し、日目上人も随伴されて池上にまいられたが、そこに二階堂伊勢入道の子息で、天台宗の僧侶である伊勢法印(いせほういん)が「日蓮に問答を申し入れる」と言って、同門の僧侶や郎従を50人ほど引き連れて押しかけてきた。伊勢法印は名の聞こえた大学匠である。大聖人のお弟子や檀越たちは「誰が問答の相手をするのだ」と固唾をのんでいた。

その報告をうけた大聖人は、日目上人に対して「問答せよ」と命じられた。日目上人は当時23歳の青年僧侶だったが、問答の経験は豊富だった。

日目上人と伊勢法印の問答は、浄土宗の教義をかわきりに行われたが、伊勢法印は舌鋒鋭い日目上人の詰問に答えられずに去っていった。

その様子を富木常忍殿をはじめ、皆で大聖人へご報告申しあげたところ、大聖人は「だからこそ日目に問答を命じたのだ」と仰せになり、大いに満足されたのである。(意訳)

大聖人が数多いお弟子の中で、日目上人を「問答の名手」として認められていたことを示すエピソードです。

大聖人の葬送の儀

弘安5年(1282、23歳)10月13日、日蓮大聖人が御入滅あそばされました。日興上人筆録の『宗祖御遷化記録』によると、辰の刻(午前8時頃)に御入滅され、大地が震動したと言われます。翌14日戌の刻(午後8時頃)、日昭・日朗両師によって御入棺され、子の刻(午前0時頃)に葬送が始まりました。棺は前陣の日朗師、後陣の日昭師によって引導され、日目上人は前陣の右に連なって葬送の儀を務められたことが記録されています。

輪番制の崩壊と身延離山

大聖人の百箇日忌にあたる弘安6年(1283、24歳)正月、身延の大聖人墓所の輪番制が定められました。記録によると、日目上人は但馬(たじま)公という僧侶とともに10月の輪番を担当されています。

ただ、この輪番制は、波木井氏と日昭師・日朗師らとの対立もあって長くは続きませんでした。三回忌を前にして輪番制が崩壊することによって、日蓮門下は各地に門流を形成し、分派することになります。

その後、日興上人が身延山の院主に、日向師が学頭に就任しますが、やがて謗法を諫める日興上人と、容認する日向師とが対立します。日興上人は身延山を護ることよりも、正法を護ることが自分の使命であると覚られ、身延の離山を決意されます。

正応2年(1289、30歳)の春、日興上人一行は身延を離山され、日目上人の叔父にあたる南条時光氏の所領である富士上野郷へと向かわれます。以降、日興上人や日目上人が身延山へ帰ることはありませんでした。

奥州での布教

大聖人の御入滅後の弘安6年(1283、24歳)当時、日目上人は奥州三迫(さんのはざま)六丁目(ろくちょうのめ)で弘教されています。おそらく正月の大聖人百箇日忌法要を終えたのち、一族の所在する奥州へ布教のために旅立たれたのでしょう。

この奥州三迫六丁目は、日目上人の出自である奥州新田氏の館があった場所で、後に上新田坊(かみにいだぼう)となり、現在の本源寺(ほんげんじ)へと発展していきます。日目上人は、まずは一族をしっかりと教化育成し、奥州の地に大聖人の教えを根付かせたいとの思いが強くあったのでしょう。

この日目上人の教化によって、奥州の地には多くの法華衆が誕生し、各地に坊舎が次々と建てられていきました。代表的な坊舎は、のちに「奥四箇寺(おくしかじ)」と呼ばれる本源寺・上行寺・妙教寺・妙円寺へと発展します。特に、大聖人御遷化の翌弘安6年創建の本源寺は、富士門流最古の寺院です。

奥四箇寺は日目上人以来の布教によって誕生した強信者が多く、大石寺や重須本門寺を支えていくことになります。日目上人は奥州在住の法華衆を、親しみを込めて「奥人(おくびと)」と呼ばれました。

奥人の中からは加賀野氏出身の日行上人などの大石寺の歴代上人や名僧も多く輩出しています。

大石寺における講学

永仁6年(1298、39歳)、大聖人の17回忌を期に、日興上人は大石寺を日目上人に託され、重須本門寺へと移り弟子の育成と法門の振興に努められました。

大石寺の住持となられた日目上人も、法門研鑽とともに日盛師らを講師として若手の育成と教化に力をそそがれました。

日目上人は日興上人とともに大聖人の御書を精力的に書写されています。富士門流の先師方が書写された御書の数は、日蓮各門下の中でも群を抜いており、御書を心肝に染め、その教えを弘めることに邁進される御先師のお姿を垣間見ることができます。

最後の天奏と御遷化

日目上人は布教のため、大石寺と奥州の間をいくども往復されましたが、長年にわたる布教の長旅により、身体に不調をきたされるようになりました。それでも日目上人が弘教の旅を続けられる中、正慶2年(1333、74歳)2月7日、御開山・日興上人が重須において88歳で御遷化(ごせんげ)されました。

この年の5月には140年あまり続いた鎌倉幕府が倒れ、翌6月、幕府を倒した後醍醐天皇が、いわゆる「建武の中興」を行うという激動の年でした。42度とも伝えられる数多くの国家諫暁(かんぎょう)を行われてきた日目上人は、これを諫暁の絶好の機会と捉えられたに違いありません。

日目上人は、同年の元弘3年(1333)11月、天奏(てんそう)のため日尊師・日郷師を伴い京都へ向けて旅立たれました。しかし、京都へ向われた日目上人一行ですが、11月15日、日目上人は途上の美濃国垂井(岐阜県垂井町)において74歳で御遷化されました。

『申状見聞私』は日目上人の御遺言と辞世の歌を次のように伝えています。
この申状を天皇に渡すことなく私は臨終するが、いまいちど人として生をうけ、この申状を天皇に上奏する。もし将来、この申状をもって天奏する人がいたならば、日目の再来と心得よ。

代々を経て 思いを積むぞ 富士の根の 煙よ及べ 雲の上まで

――富士の正義よ、雲の上(殿上)まで及べ。京都・鳥辺山に埋葬された日目上人は、そんな願いをもって、日道上人・日行上人等、代々天奏に赴かれる後代の正師の姿を、あたたかく見守り続けておられるのです。