正信会

日興門流の教えと信仰

日蓮大聖人の教えを
真摯に求める

日興上人の御精神を承継

御三祖の生涯
日興上人の御生涯

お誕生と出家得度

宗祖・日蓮大聖人は、御入滅の際に自分の弟子の中から主だった6人を選ばれました。その本弟子6人(六老僧)の中のお一人が白蓮阿闍梨日興上人です。富士門流(日興門流)では日興上人を二祖・開祖と仰ぎ、その教えを今に伝えています。

日興上人は、寛元4年(1246)3月8日、甲州(山梨県)大井荘の鰍沢(かじかざわ)の地に誕生されたと伝えられています。父は遠江・紀氏の大井橘六(きつろく)、母は駿州(静岡県)富士郡河合住の河合入道の女子とあります。

幼くして父を亡くした日興上人は、母方の祖父・河合入道のもとで養育を受けます。そして蒲原庄(かんばらのしょう:現在の静岡県庵原郡蒲原町)の天台宗寺院・四十九院に登り、漢文学・歌道・書道・国書を学びます。

やがて剃髪し出家得度した日興上人は伯耆房(ほうきぼう)と名乗り、四十九院の供僧(くそう=寺院において神仏に給仕する僧侶の職)を勤めるようになります。日興上人はこの四十九院の供僧職を33歳(弘安元年、1278)の頃まで勤められています。

日蓮大聖人との出会い

正嘉元年(1257、12歳)8月、鎌倉は大地震に襲われ甚大な被害を被ります。その惨状を目の当たりにされた日蓮大聖人は、経典の閲覧のため一切経を蔵する岩本・実相寺の経蔵に入られます。

日興上人が習学された四十九院は、実相寺から富士川をへだてたところにあったとされています。ある日、日興上人(13歳)は実相寺において大聖人(39歳)の説法を聴聞して感銘を受け、大聖人に弟子入りしたと伝えられています。

松葉ケ谷の法難

文応元年(1260、15歳)7月16日、師匠の大聖人が時の権力者であった北条時頼へ『立正安国論』を上呈されます。

その翌月27日、鎌倉・松葉谷の大聖人の草庵を、暴徒化した数千人の念仏者が襲撃します。草庵が焼かれる中、大聖人は危うく難を逃れました。これが「松葉谷法難」(まつばがやつのほうなん)です。

伊豆での給仕と駿河での弘教

法難の翌年、弘長元年(1261、16歳)5月12日、大聖人は伊豆への配流に処せられます。その報を聞いた日興上人は直ちに伊豆の師の元へと向かわれます。道中も説法教化しながら歩みを運び、また伊豆でも師への給仕の合間に近隣を教化して回ったと伝えられています。

弘長3年(1263、18歳)2月22日、伊豆流罪を赦免となられた大聖人にお供し、鎌倉へと戻られます。鎌倉に戻られた日興上人は、鎌倉と岩本・実相寺を往復しながら様々な地域で弘教されます。

龍ノ口の法難

『立正安国論』提出から8年後の文永5年(1268、23歳)、蒙古国の国書が幕府にもたらされ、大聖人が『立正安国論』で予言された他国侵逼難(たこくしんぴつなん)が現実味を帯びてきます。

そのような中、今こそ法華経を流布すべき時として弘教を続ける日蓮門下に対して、幕府は国策を妨害する悪党として厳しい取り締まりを行うのです。

文永8年(1271、26歳)9月12日、大聖人は幕府に捕らえられ、一方的な裁判の結果、表向きは「流罪」との判決が下されます。しかしその夜、ひそかに斬首刑によって亡き者にしようと龍ノ口(たつのくち)の刑場へと送られますが、光り物の出現により処刑は中止となったのです。

大聖人は佐渡流罪となり、同年の10月10日、幕府の役人に連行されて佐渡へと出立されます。日興上人は師匠のお供として共に佐渡へ向かわれました。

佐渡での弘教

罪人としての佐渡での過酷な生活の中、日興上人は大聖人へ常随給仕(じょうずいきゅうじ)を尽くす一方、罪人として配所から自由に動くことができない師匠に代わり、島内の布教に歩かれ、多くの檀越を教化されました。

そのため、今でも佐渡ヶ島は日蓮門下ゆかりの地であり、日興上人が書写された御本尊も多く現存しています。

文永11年(1274、29歳)春に赦免となり鎌倉に戻られた大聖人は、4月8日、平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)と会見します。しかし、幕府は大聖人の訴えにまたしても耳を傾けず退けてしまうのです。

更なる布教

大聖人は、波木井氏の招きで鎌倉から身延山へ移られます。しかしながら、困窮する山中生活で、大聖人は側で仕えていた弟子を一人残らず帰したとあります。日興上人も同様に身延より一端身を引かれました。

身延を後にされた日興上人は、各地への布教を展開されます。四十九院や実相寺のある駿河地方をはじめ、甲斐・伊豆地方において精力的に弘教され教線を延ばされました。

その際、走湯山・円蔵坊(いずさん・えんぞうぼう)で修学していた虎王丸(とらおうまる)が、日興上人の説法を聞いて入門を願ったとあります。この虎王丸が後の三祖・新田卿阿闍梨日目上人です。

しかし、日興上人の教線が延びるほどに迫害の兆しが現れ始めるのです。

熱原法難

駿河国富士郡下方庄熱原(現在の静岡県富士市)の天台宗寺院・滝泉寺には、日秀、日弁といった弟子達がおり、盛んに大聖人の仏法を弘通していました。

しかし、実権を握っていた浄土教者の院主代・行智(ぎょうち)によって日蓮門下は宗教的弾圧を受けます。この一連の事件を熱原法難(あつわらほうなん)といいます。

弘安2年(1279、34歳)4月、浅間神社の祭礼の最中に四郎が斬りつけられ傷を負います。同年8月、弥四郎が斬罪に処せられます。さらにその翌日、行智らがねつ造した刈田狼藉(かりたろうぜき)の罪によって、日秀および法華衆が理不尽な取り締まりを受けます。その結果、神四郎以下の農民信徒20人が逮捕され、鎌倉へと連行され投獄されてしまいます。

日興上人は身延の大聖人へ逐次報告しながら指示を仰ぎ、事態の対処に奔走しました。しかし、10月15日、指揮官の平頼綱によって、神四郎・弥五郎・弥次郎の3名は斬首、他17名は禁獄に処せられてしまうのです。この熱原法華衆の姿は、門下にとって信仰者のお手本として今に語り継がれています。

本弟子6人の制定と大聖人御入滅

弘安5年(1282、37歳)9月、大聖人は病気療養のため常陸(ひたち)の湯へと向かわれます。しかし、病身の旅は負担が重く、池上宗仲邸(東京都大田区)で静養することとなりました。

10月8日、大聖人は日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の6人を本弟子と定め、日蓮門下の将来を託されました。

10月13日、日蓮大聖人は61歳で御入滅されました。この時に「即時に大地が震動した」と日興上人は書き残されています。また、同時に時ならぬ桜が咲いたと今に伝えられています。

翌14日、葬儀が執り行われ荼毘(だび)にふされました。その様子を日興上人は『宗祖御遷化記録』として記録されています。

葬儀後、日興上人は大聖人の御遺骨を奉じ、一路身延へと向かわれました。

墓所輪番制の崩壊

日興上人一行は、10月25日に身延に帰山され、御遺骨は廟所に安置されました。

翌弘安6年(1283、38歳)1月、百箇日の法要が営まれました。この際、御遺言通りに墓所の輪番が制定され、本弟子六人と主な弟子が1ヶ月ごとに順番で大聖人の墓所を守り給仕することが定められました。

同年10月13日、大聖人の第一周忌が営まれましたが、この頃から他の老僧方は身延から遠ざかり、輪番制が守られなくなります。

輪番制を心配する波木井氏は日興上人に訴え、日興上人は他の老僧方との仲介に努めますが、その努力もむなしく輪番制は崩壊し、大聖人の三回忌は日興上人とわずかな弟子達だけによって営まれるという状況でした。

身延常住

輪番崩壊後、日興上人は、墓所を守り身延山を運営するために院主(いんじゅ)として常住を決められ、「久遠寺(くおんじ)」との寺院として整えられていきます。波木井氏は、この日興上人の院主就任と身延常住を、あたかも入滅された大聖人が再来されたかのように喜びました。

この頃、日興上人の尽力により、老僧の一人の日向師が学頭就任のため身延山に登山し、波木井氏はこれを何よりも喜びました。生前の大聖人より「墓をば身延沢に」と依頼された波木井氏は、身延山が整束される様をみて、日興上人に対する尊敬の念を一層深めました。

「日蓮聖人の弟子」と「天台沙門」

この頃、鎌倉などで活躍する老僧方、とくに日昭師・日朗師は「天台沙門(てんだいしゃもん)」と署名して申状(もうしじょう)を提出しました。一方、日興上人の申状には「日蓮聖人の弟子」と署名されています。

このように、日興上人と他の老僧方とは、すでに意識の違いがあったことが申状の署名から確認できます。鎌倉によく行き来をしていた波木井氏および日向師も、しだいに大聖人の教義を軟化させました

日向師と波木井実長の謗法

波木井氏は、三島神社への参詣や、念仏の富士の塔(福士の塔)の建立、釈尊木像の造立など、大聖人の教えに背く謗法行為を重ねるようになります。日興上人がこれらの波木井氏の行為を制止しようとする一方、日向師はこれを容認するだけでなく、自身も大師構(だいしこう)において国祷(こくとう)を行いました。正法を受持せず日蓮門下に弾圧を加える国家の長久を願ったのです。

日興上人がこれらの謗法行為をいくら誡めても、日向師と波木井氏はとどめませんでした。いつしか日興上人は身延離山を考えられるようになります。

身延離山と大石寺建立

正応元年(1288、43歳)12月、身延から離れることを決意された日興上人は、原殿への手紙で、「数々の謗法行為は、波木井氏だけの失(とが)ではなく、ひとえに邪義を立てる日向師の過失である」(『原殿御返事』)と、離山の理由を述べられています。

さらに同書では、大聖人と共に過ごされ、聖人滅後も6年にわたり護られてきた身延を離れる決意について、次のように述べられています。

「身延の沢を退くことは非常に面目なく、また本意ではないことは一言では申し尽くし難いが、引いた波がまた寄せるように何度も案じたところ、何処にいても聖人の御義を受け継いで世に立てることこそが肝要である」

身延を離れることは、日興上人にとって、大聖人の教義を正しく受け継ぎ弘通するためには致し方のない苦渋の選択だったことが分かります。

正応2年(1289、44歳)の春、日興上人一行は身延の山をあとにし、南条時光氏の所領である富士上野郷へと向かわれました。南条氏は、自領の大石ケ原を寺地として提供され、大石寺が創建されました。

談所の開設と門弟の育成

大石寺の礎を築かれた日興上人は日目上人に大石寺を譲られ、近くの重須(おもす)の地に移られました。永仁6年(1298、53歳)2月、日興上人はここに御影堂を建立して重須談所を開設し、弟子の育成に力を注がれました。

重須に入られてから間もなく、師の大聖人が六老僧を選び定められたように、日興上人は日目・日華・日秀・日禅・日仙・日乗の6人の弟子を「本六人(ほんろくにん)」と定められました。

この頃、身延で日向師に師事していた日澄師や、六老僧の一人で日澄師の兄にあたる日頂師らが重須へ移り、日興上人のもとで後学の指導に努められました。

安国論の精神を継いで

日興上人は大聖人が生涯にわたって掲げられた立正安国の精神を継がれ、「申状」を作成し、法華経の教えによるべきことを訴え続けられました。

嘉暦2年(1327、82歳)8月、朝廷への申状を作られ、日順師がそれをたずさえ天奏しました。その3年後の元徳2年(1330、85歳)3月にも武家への申状を作られ、弟子に上奏を託されています。

新六人の制定

正慶元年(1332、87歳)、日興上人は「本六人」(日目・日華・日秀・日禅・日仙・日乗)の過半が入寂したとの理由から、「新六人」として日代・日澄・日道・日妙・日豪(日郷)・日助を定めたと伝えられています。

謗法厳誡(ほうぼうげんかい)と令法久住(りょうぼうくじゅう)の精神

次の時代に正法が正法として伝わるように、さらには弟子檀越が正しい信仰を貫くようにとの想いから、正慶2年(1333、88歳)1月、日興上人は『日興遺誡置文二十六箇条』を成立させます。

「富士の立義(りゅうぎ)いささかも先師の御弘通に違せざる事」
から始まり、五老僧との相違、御書の取り扱い、謗法破折、学問の大切さ等が訓戒され、現代においても富士門流における誡めとして拝されています。

ご遷化(せんげ)

翌月の正慶2年(1333、88歳)2月7日、重須において日興上人は臨終の御説法をなされました。そして多くの弟子・檀越に看取られる中、同日夜半にご遷化されました。

『日興上人御遷化次第』によると、8日の午後6時頃に入棺、午後8時頃に葬送されたことや、本弟子の日仙師・日目師が中心となって葬儀が行われたことが窺えます。

日興上人は2首の辞世の歌を遺しておられます。
「ついに我れ 住むべき野辺の かた見れば かねて露(つゆ)けき 草枕かな」
「よろづをば すてて入るにも 山の端(は)に 月と花との のこりけるかな」
「ついに我……」の御歌は、「今生の終わりに臨んで、我が身が還えるべき野辺を見れば、五体というものは草の上の露のように儚いものである」というように、この世は無常であることを詠まれています。
「よろずをば……」の御歌は「この身はやがて滅するけれども、悟りの心は月や花のように輝き続ける」と、成仏の境地は常住不滅であることを詠まれています。

日興上人は、2首を一対として、妙法受持によって成道を遂げることが本当の成仏の姿であるとの仏法の真理を示されたのです。

富士門流の鑑(かがみ)として

日興上人のご遷化から約3ヶ月後、北条氏が滅ぼされ、140年あまり続いた鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が朝廷の政治を復権しようとします。いわゆる建武の新政(建武の中興)です。しかし、建武の新政も足利氏をはじめとする武士層の不満を招き、わずか3年たらずで崩壊します。その後も覇権をめぐる時代となり国内は乱れました。

そのような激動の世の中にあって、富士門流の弟子檀越は、正法を護るべく日興上人のお姿を眼に浮かべ、その教えを思い起こしたに違いありません。

日興上人の御一生は、「日蓮大聖人の弟子」としての姿勢と立場をいささかも崩すことなく、大聖人滅後も50年にわたり正義(しょうぎ)を護り続けられました。そこには、大聖人滅後においても変わらない常随給仕のお姿がありました。

世の中に迎合することは容易(たやす)いことである一方、正義をたもち続けることは決して容易なことではありません。どんな時代になろうとも、日興上人の純心かつ強盛な信仰の姿勢は富士門流の鑑であり、その御精神は大聖人の魂魄と共に永遠に滅することはありません。