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法華講全国大会・山口市
「法華経の行者は冬のごとし」
平成28年5月22日
大山謙道師

プロローグ

皆様こんにちは。
アンニョンハシムニカ、カムサハムニダ。

本日はここ山口市に全国より正信会僧俗代表が集い、またお隣韓国より大韓寺講中をお迎えして、宗教法人正信会法華講全国大会が開催され真におめでとうございます。
私はただいまご紹介を頂きました大山謙道と申します。
神奈川県横浜市の妙法院で御奉公申し上げております。
本日は講演の指名を頂きましたので「法華経の行者は冬のごとし」と題しまして、日頃の所信をお話させていただきます。どうぞ最後までよろしくお願い申し上げます。

出会いと選択

さて私たちそれぞれの人生を決めるもの。それはさまざまであろうかと思いますが、およそは「出会いとその出会いとの選択」、ここに帰するのではないかと私は考えております。出会いといいましても「選べる出会いと、選べない出会い」があります。また、「袖すり合うも多生の縁」という言葉が仏教の考えから出ていますように、あらゆる出会いは必然であり然ではないという考え方が仏教的かと思いますが、ここでは出会いを理解しやすくするために、選べる出会いと、選べない出会いに分けて考えてみたいと思います。
私たちの人生は出会いの中で、朝から晩まで、幼い子供からもうあと一歩という方まで、朝から晩まで選択をしているんですね。洗う洗濯ではありません。選び取るということです。
この選択をするという意味、それもまず出会いということをよく見つめないと分からないと思います。私たちが選べない出会いと考えるのは、簡単にいえば「どこに生まれるのか、どの時代に生まれるのか、どういう家族の中で育つのか・・・」などで、それは自分の選択した出会いではないと考えがちです。ただし、仏教的にはそれらもやはり選んできたと観るべきなのでしょうが。
一応世間的に与えて、それらは選べなかったものとします。さらにいえば、幼い頃から傷害があったり、もしくは重い病があったり、また不慮の事故があったりと、そういうことも自ら求めたものでもなければ選んだものでなないでしょう。

それに対して選べる出会いというのは人間として成長する中において、どのような人とつき合うのか、どういう思想、信仰、宗教を学ぶのかなどであって、出会ったものをどう選ぶのかということです。平たくいえば、今日自分は何を着るのか、一人で人生を生きるのか、二人で行くのか。どこに住むのか、どういうライフスタイルを採るのか。これらはほとんどが自分が選んでよい出会い、選択してよい出会い、ということです。

選べない出会いとべる出会いという二つの出会い。人生を左右する出会いですが、一度の出会いがすべてを決めてしまうというものでもありません。例えば幼くして重い病にかかったとしましても。またある程度ハンデイがあったとしましても。人は一人一人その対応が違いますね。

その恵まれない状態を悲観的ばかりにとらえて、自分自身の心を閉ざしたり、未来を諦めたりする人もいれば、そのハンディを自分自身で正面から受け止めて、不遇を生きるバネにしたり、生きるエネルギーに変える人もいて一様ではありません。
したがって出会いによって決まるということは、出会いそのものがすべてを決定しているということではなくして、「出会いに対して自分がどのように対応するか」という選択が大事ということです。
選べない出会いは置きまして、選べる出会いであれば「その出会いは○なのか、△なのか、もしくは×なのか」と。必要とするもの、躊躇して考えてみるべきもの、拒否して遠ざけるもの、という選択がありますね。

より良い選択をするためには、より良い見識を身につけなければなりません。私たちが今、日蓮大聖人様の教えを学び、法華経の教えに心を寄せて、そして日興門流のその信仰を杖とも柱とも鏡ともして行こうとすることは、その選択に磨きをかけて、悔いのない人生を歩もうということに他ならないわけであります。

当然そこには「学んでいこう、自分自身の見識を高めていこう」という姿勢が求められてまいります。とはいえ、良く考えて出会いを選択したとしても、それが吉と出るか凶と出るか、また、タイムラグがあるのか無いのか、など判断をするのは難しいものがあります。人生を長く歩かれた方はお気づきだろうと思います。選んだことが始めは失敗したなと思っても、後になってみるとやっぱり間違っていなかったということもあるでしょうし。よしよし上手くいったと思っても、後になってこれは間違いだったなと、気づくことも多いと思うんです。

これは人生にはよくあることであり、中国には『災いは福の寄るところ、また福は災いの伏するところ』という言葉があります。この意味は「災いというものは良いことがあったすぐそばにもう、忍び寄ってます。また逆に、辛いこと、厳しいことのすぐそばには、幸せなことが忍び寄っています」ということです。『禍福はあざなえる縄の如し』などということもあります。

ですから出会いも、すぐ簡単に是か非かと、遇か不遇か、幸か不幸かということではなく、出会いが人生を決めているという事。出会いが自分自身の生き方を決めているという事。出会いとともに選択とが求められているという事。よりよい選択をするためには、自分自身を磨き上げて行かなければならないという事。それらを出会いの中から学ぶことが大切なのです。

私たちは、賢く勇気のあるお父さんのもとで生まれたいなと思ったり、きついお母さんじゃなくて優しいお母さんが良いなと願ったりしますが親を選ぶことは出来ません。その親とて、気だての良い、思いやりのある子供が良いといっても、そういう子供が授かるかどうか分かりませんから、まず変えられない出会いならば。変えられないというという覚悟を決める。そして変えていけるものならば、変えていく智慧と心を磨いていく。

そういうことが大事ではないかと思うんです。
大聖人は『四信五品抄』の中に、これは天台大師の言葉の引用ですが、
「もし知識に会えば、宿善かえって生ず、若し悪友に会えばすなわち本心を失う」と述べられ、「もし良い人と出会って、良い考え、良い想い、そういう人と出会いならば、元々自分が持っている良き心、此れが薫発されるでしょう」と。「然し悪い考え、悪い友達、こういうものと出会ったならば、良き心は失われてしまう」と誡められています。

また『顕謗法抄』には、「後世を願わん人は一切の悪縁を恐るべし、一切の悪しき縁を恐るべし」と述べられ、「自分が親しく交わる人々には善悪があるかも知れません。私たちは他者の言葉や振舞いに影響を受けますから、悪縁を恐れなければいけない。さらには悪い人よりも悪知識を恐るべし」と教えられています。悪い人というのはよく見ていればおよそおかしいなーということが分かりますが、悪い考えというものを見抜くということは難しいものがあるからです。まして言葉は飾ることも、また偽ることも不可能ではありませんから、それを見抜く智恵がなければ誑かされてしまうことにもなるわけです。
何れにしましても、この悪知識、それから悪縁を絶って、善友・善知識を頼みとして生きていく。それが仏の道のあり方ではないかと思いますし、 本日お集まりの皆様方が仏法を大切にして、そして法華講の同志に信頼を寄せて、日々精進する姿に通じているのではないかと思うのです。

出会いと選択を信仰の面に向けてみますと、本日の所感発表にもありましたが、私たちはさまざまな世界的な宗教の中で、キリスト教でもイスラム教でもなく仏教を選ぶことが出来ました。又仏教の中でも大乗仏教、その精華である法華経とご縁を結ぶことが出来たのです。
また同じ法華経の信仰の中でも、日蓮大聖人の仏法と出会い、それを選びとって今日にいたって居ります。然しご承知のように日蓮大聖人の教えを信行するという団体は、多岐にわたっております。その中にあって私たちは、大聖人の高弟六名の中の日興上人の御精神こそ、日蓮大聖人の本義に叶うものと信をとって、富士日興門流としての信仰を修めているわけであります。
然しながら現在、この日興門流というわくの中には創価学会もありますし、狂信的な顕正会という団体もあります。そして一番ややこしいのは血脈相承を偽り法主を詐称して、そして日興門流・大石寺門流を混乱せしめた者が、本山である大石寺に跋扈しているという事です。この実体は覚醒運動初期から活動しておられる方は良くご承知のとおりです。
しかし、現在の日蓮正宗・大石寺の姿を見ておりますと、何事もなかったかのように日達上人から阿部日顕師へ、阿部日顕師から早瀬日如師へとスムースに法主がつながっているように主張していますから、疑問や不信を感じない日蓮正宗の人々が多いのも事実です。特に日蓮正宗は権威主義的ですから。
権威には力があります。ひとたび権威を認められたら覆すことは難しいものです。まして権威主義に馴染んだ人たちに道理は通じません。権威に対しては直に批判精神を発揮する人もいますが、一般的には権威に弱い人は多いものです。
とはいえ権威そのものがいけないというものではありません。権威主義に問題があるのです。なぜかといえば、私たちにとって宗祖の御書は宗祖の教えの権威です。そして宗祖の御振舞いは私たちの成仏の鏡としての権威です。しかし、権威と権威主義は違うんですね。注意しなければならないのは権威を悪用する権威主義です。それが現在の日蓮正宗・大石寺では横行しており、それに翻弄される方も大勢いるのです。

本日の大会に参集の方々は、ともに宗教法人正信会を基盤として、成仏への道を歩もうとする僧俗であります。私たちは現在の日蓮正宗、阿部・早瀬両師の悪行と欺瞞を見抜いて、本来の日蓮大聖人・日興上人の教えを求めていこうと信行精進の道を選択したのです。また、最近まで私たちと同様に正信覚醒運動を推進しながら、阿部・早瀬宗門のような戒壇本尊の唯物信仰や、英邁な法主という血脈論を持ち出してきた古川師を中心とするグループとも私たちは袂を分かちました。

私たちは信仰面においてもきちんと選択を重ねて現在に至っているわけです。私たちが選びとった信仰というのは、近年見失われた富士日興門流本来の法義と信仰を正直に取り戻し復興する、というものであります。この立ち位置をお互いに肝に銘じて信行に励みたいと思うのであります。

人生では世法的にも仏法的にも厳しいことや辛いことが起こってきますが、そのような課題に直面したときに大切なことは大聖人の振舞いに思いを寄せることです。そして大聖人の御言葉を聞くことです。私たちの活動方針の一つに、「日々御書に親しもう」があります。これは大聖人門下にとっては最も大切な信仰姿勢で、迷った時にこそお題目を唱えて大聖人にうかがい、大聖人様に進むべき道を求めるべきであります。

法華経の行者は冬のごとし

大聖人は『妙一尼御前御消息』に「法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる、未だ昔より聞かず見ず、冬の秋へと帰れることを」と述べておられます。
この御文は我われ宗祖の門人ばかりではなく巷間よく引かれことがあります。引かれるところというのは「冬は必ず春となる」。ここが強調されるんですね。
冬は必ず春となる、良い言葉ですよね。元気が出てきますよね、頑張る気持ちになれますよね。「今は辛くても、苦しくても、やがて必ず春が来るんだ」と。

このような理解はそれなりの意味があり、一方的に間違いとはいえませんが、この御書の全体を見て、そして妙一尼と亡くなった御主人の状況を思う時に、このご文は「法華経を信行する人は、仏になれないことはない」という宗祖の確信を述べたものであることがわかります。仏の道に縁した者の目的は、宗派を問わず仏になるということです。この目的を持たずして仏の道を歩むことは無益なことですから、法華経の行者である宗祖から「ご主人の成仏はまちがいない」と伝えられた妙一尼の悦びはいかばかりであったでしょうか。

この「冬は必ず春となる」とのお言葉からは、一切の仏教の根本である法華経を受持する者の成仏が約束されましたが、同時に「冬は必ず春となる」ということですから、「法華経を信ずる人は春の如し」とは違いますよね。宗祖は「法華経を信ずる人は冬のごとし」と仰っているんです。法華経を信行する人は、辛いことや、苦しいことや、厳しいことを乗り越えて必ず春を迎える。この自らの信念と、精進と、正直な心に、仏の慈悲がそそがれるとの確信を意味しているのではないでしょうか。

さらにもう一歩深読みをさせていただければ、大聖人は竜の口の頸の座から極寒の佐渡への流罪。そして厳しい生活であった身延でのご生活。当然鎌倉での布教においても大難四カ度小難数知れずとふり返っておられますから、そのご生涯は厳しさの連続でした。
しかし、宗祖は一言も辛い、苦しいという嘆きは述べておられません。「法華経のために、人々の成仏のために、この辛さ、苦しさ、厳しさは悦びだ」と仰るのです。ここにこそ「法華経の行者は冬のごとし」という意味があるのではないかと私は思っているわけです。

宗祖は辛さ苦しさがやがて好転するということを願われたのではなく、この苦しさや辛さは法華経のためであるから、苦難そのものを悦びとされたのであります。私たちであればより良い人生を歩むための苦労を悦びとするようなものであり、非力ではあっても仏の道を守り伝えるための苦労を悦びとすることではないでしょうか。

釈尊は私たちを導かれる時に「人生は苦しみに満ちている」といわれ、一つの真実とし「一切皆苦」という言葉を遺されました。これは一言でいえば、「人生は思うようにはならないよ、煩悩に振り回されていては苦悩は尽きないよ」ということです。しかし、その事実を直視し、自ら認めて、その人生を意義あるもにしようと願う者のために釈尊は真実の教えを説かれたのです。
その意思を宗祖は継がれたわけですから、法華経護持弘通のための苦難を法悦とされたそのお振る舞いを信仰の手本として、鏡として、自分の腹にしっかりと据えなければいけないと思うのです。
辛いことや苦しいと思うことを悦ぶというのは、やせ我慢だという人もあるでしょう。しかし、それは腹が据わっていないからです。宗祖は『法蓮抄』に「信無くして此の経を行ぜんは、手無くして宝山に入り、足無くして千里の道を企てんが如し」とご教示です。どんなに仏の道と縁があっても、また仏教を深く学んだとしても、信心がなければ仏法を自らのものとすることは出来ません。「信心の腹を固めること」が、まさに法華経の行者は冬のごとしという覚悟なんです。

仏道と信仰に対して私たちも覚悟を定めなければ、仏道のまことの悦びに触れることはできないと思います。中途半端では信仰の深い悦びを得ることはできないのです。それは宗祖と日興上人がお振る舞いをとおして教えておられます。皆さま方は常日頃各菩提寺において、御住職からさまざまに宗開両祖の御振舞いと教えを聞いておられると思います。ただし、聞いていても心に響かなければダメです。分かるということは耳で聞いて分かる。目で読んで理解したということじゃないんです。腑に落ちた、心でうなずいた、ここで始めて分かったです。感動してさらに分かったとなるんです。

先程代表役員の挨拶の中で人間の命の貴重さは「宝くじの一億円当選を百万回連続で当てなければならない確率」とありました。命の貴重さは知っているつもりでしたが、あまりに具体的なお話で得心しました。
それほど尊い命。
それと共に宗祖が仏道に縁を結ぶことの難しさを語っておられるように、法華経に出会うこと、末法の法華経の行者に出会うこと、仏法の全体を統べ括った南無妙法蓮華経と出会えたことに、私たちは心から感謝をして、なおいっそう信心を深め行くことが肝要であろうと思います。それが「法華経の行者は冬のごとし」という精神に通じておりますし、その覚悟に立ってこそはじめて、今回の大会のテーマである、「法燈相続と布教」に思いが至るのだと思うのです。

法燈相続と布教

法燈相続と布教といいますのは大聖人の教えを護り伝えることです。内に法燈相続、外に布教と、こう考えることもできます。この修行に励むためには法華経と仏道への篤い信仰がなければできません。
法華経の『譬喩品』には、「是の諸の衆生は皆是れ我が子なり。等しく大乗を与うべし』との仏のお言葉に対して舎利弗は『仏に従いたてまつりて、未だ聞かざる所の未曽有の法を聞いて、諸の疑悔を断じ、身意泰然として、快く安穏なることを得たり。今日乃ち知んぬ。真に是れ仏子なり』と応えます。

仏さまは仏道を学び修行する衆生は皆自らの子供であるというのです。実にもったいないお言葉ですが法華経の諸処に説かれています。この言葉にふれて「自分のような者でも法華経を受持する者は仏さまの子どもであるかもしれない」と信ずるようになったり、「仏さまの子どもらしい人生を歩みたい」と願うようになれば、「父であるその仏の教えを護り、その教えが人々を救い、安らぎを与えるものであるならば、それを弘めて行きたい」という志を抱くものです。私はここに法燈相続と布教の原点があるのではないかと思うのです。

法華経の結びの経、結経といいますが、その『観普賢菩薩行法経』には非常にありがたい言葉が説かれています。「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり。此の経を持つ者は、即ち仏身を持ち、即ち仏事を行ずるなり。当に知るべし、是の人は即ち是れ諸仏の所使なり。諸仏世尊の衣に覆われ、諸仏如来の真実の法の子なり。汝大乗を行じて法種を断たざれ」と。
私たちが法燈相続を願うのも。また布教に志を向けることも。それはこのお言葉を大切に思えるからです。

妙法はあらゆる人々を幸せに導く種です。私たちが法燈相続・布教に思いを寄せることは、妙法の種を播こうということに他なりません。
大聖人は『立正安国論』に「予少量たりと雖も忝くも大乗を学す。蒼蝿驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生まれて諸経の王に事ふ。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさざらんや」と仰せになっております。

大聖人の「法華経の行者は冬のごとし」という崇高な覚悟は、『開目抄』の「詮ずるところは天も捨てたまえ、諸難にも遭え、身命を期とせん」からも拝することができます。このよう大いなる誓願を立てた所以は、まさに「仏法の衰微を見て、心情の哀惜を起こした」ことによるのです。

私たちは大聖人の門弟であります。この宗祖の心に一歩でも二歩でも添い奉り、自らの成仏を願って、また多くの有縁無縁の方々の幸せを願って精進したいと思います。ただ、私たちが法燈相続や布教に熱い思いがあったとしましても、それはただ語ればよいということではありません。自らが能く教えを学び、そして能く行に努めて、身心を清らかにし豊かにして、慈悲のこころで語っていくことが大事ではないかと思うのです。

法燈相続と布教は信心を押しつけたり、難しい仏法を生かじりでまくしたてることではありません。仏道のすばらしさや宗開両祖の尊い振る舞い、自らの信仰の悦びなどを静かに道理をとおして語ることです。一言でも、二言でも、自分の正直な言葉で語ることが大事であろうと思います。

私たちには仏子として妙法の種を播くという尊い使命がありますが、それは無理矢理押しつけるものではないということです。法華経には順逆の二縁が説かれています。すなわち素直に妙法の話を聞ける方であれば仏道を歩むことでしょう。また、逆らい反対して、批判する方も、その事を縁として救われるのですから有り難いことです。

私たちは「法燈相続と布教」には、順逆二縁があるということを心に修め、妙法の種をまくことが自分自身の信行を磨き、人生を輝やかせることであることを信じて精進いたしましょう。「法華経の行者は冬のごとし」という宗祖の覚悟に、一歩でも二歩でもお互いが近づくように努力をするならば、それが正信覚醒運動の更なる前進につながるものと信じます。

結びとなりますが、ここ山口は近代日本の夜明けを告げた土地柄として知られています。「祖道の恢復と宗風の刷新」を求めて、出会いと選択で得た正信覚醒運動を展開している私たちは、法華経の行者は冬のごとしという宗祖の御心を胸に、富士日興門流の夜明けに向けて本日より尚一層信行に精進してまいろうではありませんか。 以上持ちまして私のお話とさせていただきます。 ご清聴まことにありがとうございました。

法華講全国大会・名古屋市
「正信覚醒運動の原点とその使命」
平成29年5月28日
荻原昭謙師

本日は、宗教法人正信会法華講全国大会が、ここ尾張法難の地に於いて盛大に開催されました事、誠におめでとうございます。

私は静岡県藤枝市、応身寺の荻原昭謙と申します。大会実行委員会より「正信覚醒運動の原点とその使命」についてお話をするように求められましたので、講演などとおこがましい誠に拙い話しか出来ませんが、私の所感を述べさせて戴きます。

私は「宗風の刷新と創価学会の謗法問題の徹底追及」を願って興された正信覚醒運動に当初より参画し、昭和五十五年八月、東京武道館で第五回檀徒大会を主催した事を理由に、詐称法主の阿部師より擯斥に処された擯斥第一号の一人であり、当初より正信覚醒運動に携わってきた一人として表題についてお話をさせて戴きます。

激動の昭和と言われますが、御存じの様に正信覚醒運動は、その昭和五十年代に興りました。悲惨な戦争の復興から高度経済成長を走り出した昭和二十年代後半から四十年代の日本。

その様な時代に、末法の教主日蓮大聖人の仏法を継承する日蓮正宗(富士日興門流)は、信徒団体創価学会の激しい折伏闘争によって、急激な発展を見る事になります。

私も日蓮正宗の一僧侶として、その大きなうねりの中にありました。

富士日興門流は、御開山日興上人の時代には、日蓮門下の中でも有力な存在でありましたが、中世から近代までは時を得る事なく、創価学会が信徒団体となって日蓮正宗が世間的に注目されるまで、他門に比すれば弱小教団的存在でありました。

その教団が信教の自由を迎えた時代の背景と創価学会の力で急膨脹。寺院も僧侶も少ない宗門は昼夜不休の多忙を極めることになりました。

そうなりますと、法務に追われ、僧侶としての大事な修行や修学も疎かになり「会員の指導は創価学会で!、御僧侶方は御授戒や葬儀、法務の執行を!」という学会との合意もあって信徒や、学会員に対する教化も次第になおざりになって行きました。

そればかりか、永く伝承されて来た日興門流の法義信仰よりも、学会的な教学や思想が宗門に影響を与えることになり、学会教学やその信仰が、日蓮正宗の教義信仰そのものとみなされる様になって行ったのであります。

創価学会の特徴は、徹底的な排他独善。その上に罰と功徳の極端な現世利益の追求。会長へのカリスマ信仰。全体主義と見まがう組織至上主義。権力奪取の為、公明党が結党され、政治権力への狂気的な関与等であります。

敗戦による精神的支柱の崩壊や、貧困、病気等、現実の様々な苦悩に対し、僧侶の説く法門よりも、単純明快な在家の強引な折伏と御利益信仰に、高度経済成長期とも相侯って、更には地方から都会への人口移動、ライフスタイルの変化や、家族形態の変化も寄与していた様にも思います。

何よりも、七百年の伝統ある総本山・大石寺、杉の巨木が林立し今日の大石寺には その面影さえ見られませんが、明治の作家・大町桂月は、「大石寺を見ずして寺を語ることなかれ」と評している荘厳、清浄なる聖地。

「創価学会は新興宗教じゃありません。七百年の伝統ある日蓮大聖人の唯一正当の仏法です。百聞は一見にしかず、本門戒壇の大御本尊まします総本山に登山致しましょう」このキャッチフレーズも大いに学会を利して、創価学会に入会という形で、日蓮正宗に入信する人々が爆発的に急増して行きました。

全国に新しい寺院が続々と建立され、僧侶も次々と得度養成される事態になって行きますが、同時に、経済発展から余裕や慢心が生じ、僧侶にも堕落、退廃の風潮が出て参りました。

更に宗門本来の法義・信仰よりも創価学会に媚び諂い、学会のあり方に迎合する様な僧侶も出てきました。その代表的存在が後に相承を詐称して、法主の座を奪った阿部師であり、宗務役僧方も而りであります。

阿部師に至っては「池田先生の社会に開かれた教学は完壁です」などとお追従していたのであります。実に嘆かわしい事ですが、此の様な姿勢は宗務役僧ばかりではなく、宗内のそこかしこに見られ「学会と上手くやって行く」という姿が、宗内に蔓延していたのであまります。

と言うのも、昭和二十七年に学会が宗教法人を設立した当初から、反対僧侶の吊し上げがあり、昭和四十七年の正本堂落成までまで宗門と学会は折々にぶつかったり、協調したりという関係でありました。

その間、学会と対立したり、学会ににらまれた僧侶が吊し上げを受けたり、宗門から追い出されたり、自ら宗門を離脱する事件が数件発生しました。

やがて、ノンポリを決め込む僧侶も多くなり、学会の方針や活動について、「おかし、間違っている。それは謗法だ」と思っても、口に出すのは憚られる様になって行きました。「僧侶として安穏に日々が送れればそれで良い」という様な風潮が宗内に蔓延して行きました。

その様な時の流れの中に、池田氏の天下取り、公明党の政教一致批判が国立戒壇問題を巡って、共産党により国会で取りざたされる問題が起きました。

この批判をかわし、同時に池田氏により「広宣流布は既に達成された」との欺瞞のシンボルとして、本門の戒壇の大御本尊安置の為の、正本堂建立という大事業が、創価学会、宗門全僧俗一丸となって進められました。学会はその御供養の集金力により、その勢力を大きく社会に誇示する結果となり、飛ぶ鳥を落とす勢いの池田氏は弥々慢心を募らせ、「弥々時来たれり」。とばかりに「宗門を支配下に従属させるか、分離独立か」の、かねてよりの野望を行動に移します。

昭和四十七年、正本堂落慶の頃から法主よりも自分が上だ、という無礼な態度を事ある毎に示し、宗内のあらゆる事に干渉し、池田氏の意向が更に宗内を覆って参りました。そして弥々野望実現の手段として、「日蓮正宗インターナショナル構想」を打ち出して来ました。

宗門を支配下に置く事の実現を図りながら一方、目的が頓挫した時には宗門から独立する事も画策していたのであります。

池田氏の創価王国構想には、どうしても宗門は目の上のタンコブだったのです。

学会は元来「学会組織の拡大そのもの」が最大の目的であり、池田氏をカリスマ化したのも本音は、学会組織を以て創価王国構築の為、名聞名利充足の為。その為には宗祖の教義を改変しようが、世間法に反しようが、てん恬として恥じないのが学会であります。

「池田先生は現代の主師親の三徳を備えていらっしゃる、現代における大聖人様である。人間革命は現代の御書である」と平然と大幹部に指導させ、洗脳して御本仏になりすます。

又、「本尊流布する事が広宣流布だ、手段を選ぶ必要はない、御本尊さえ持たせれば、本人の為になるんだからそれでよし」「公明党の選挙活動は、王仏冥合、大聖人の仏意仏勅である。一票獲得に功徳がある」。

所詮、学会にとっては、宗祖の教えも教団組織に都合のいい様に利用し、宗門も利用する手段にしか過ぎなかったのであります。

昭和五十二年正月、池田氏は「仏教史観を語る」という新年の講演で、自らの野望を剥き出し、宗門に挑んで参りました。宗門を従属支配下に持ち込めるか、分離独立か。後にいわれる「昭和五十二年創価路線」であります。

二者択一の分水嶺に立った池田学会は、時を前後して宗門僧侶への恫喝、吊し上げという蛮行を展開しました。

しかし、この事件をきっかけとして、今迄宗門の姿勢、創価学会の姿に大いに義憤を覚え、熱い念いを抱きながらも忍んで来た若い僧侶たちの中から「今こそ学会の邪義、謗法を糾さなければならない。宗開両祖の教え、富士日興門流の法義と信仰を護ろう」という声か燎原の火の如く燃え上がったのであります。

此の念い、此の護法の声こそ、正信覚醒運動の原点であり、理念と目的となって行く「宗風の刷新」、「祖道の恢復」の原点であります。

「宗風の刷新」。四十年前、法友と熱く語り、誓い合った事を、今に決して忘れる事はありません。

私が、断じて「宗風の刷新」を叫ばなければ、と覚悟しましたのは、運動を勧める為に法友と連れ立って、ある時は一人で先輩僧侶、御老僧方を尋ね、「こんな宗門でいいのですか! 学会を一緒に糾して行きましょう」と訴えますと「二度と芋ばかりの生活はご免だ!」「長い物には巻かれろって言うじゃないか」と言う言葉が返ってきます。

極め付けは、阿部師に至っては、学会をかばって、覚醒運動を押さえ込もうとし「本山の燈燭を守ってくれているのは創価学会であり池田先生です」と、臆面もなく言い放つ始末です。大聖人の仏法よりも、経済である。と言明したのであります。

私は同志、法友の皆さんと、如何なる処分、如何なる事態にあっても、一蓮托生の誓いのもと「宗風の刷新」を叫んだのでありますから、現在、残念ながら袂を分かった、古川・田村グループのように「日蓮正宗を護り、日達上人の時代に帰すのが正信覚醒運動である」との考えには、断じてく与み致しません。

何故ならば、正信覚醒運動は日達上人によって興されたものではありません。第一、刷新しなければならない宗風こそ、近代宗門のそのものであるからであります。

正信覚醒運動は、「日蓮正宗という教団組織を護るものでもなく、僧侶の思い通りになる宗門を取り戻すものでもありません」。偏に「宗開両祖の法義と信仰を護る運動。御信徒の成仏への道を護る運動」だと考えるからであります。

次に、私は「祖道の恢復」こそ正信覚醒運動の使命と堅く信じております。「祖道の恢復」とは、創価学会と二人三脚で歩んで来た近代宗門や、富士日興門流の永い歴史の中で、様々な出来事や、門流教学などによって派生した宗開両祖の教えでないもの、また失われてしまったかもしれない御法門等、伝統法門と言われるものも検証し直して、真実の日蓮大聖人、日興上人の教え、教義を取り戻す事だと思っています。

私は正信覚醒運動こそ、富士日興門流再興の道と堅く信じております。

運動のきっかけは「宗門の宗風の刷新、創価学会の謗法の是正」であったかも知れませんが、やがて運動を通じて、単なる学会批判、宗門批判ではなく、富士日興門流本来の法義と信仰を求める道を歩む事になりました。これは大変有難い事、素晴らしい事だと思っています。

祖道の恢復を願行するのは、今申したように、より正しい宗開両祖の教えを求め、富士日興門流の法燈を正しく継承したいという念いに尽きるのです。

同じく運動に励んで来たと思っていた古川・田村グループとは、出発点から違っていたのでしょうか。日達上人の時代の宗門を全肯定して「何も足さない、何も引かない」等と愚かな事を平然と主張していますが、此の言葉からは求道という仏法のある可き姿が見えません。

更にあの時代の全てが肯定されるのなら、取りも直さず「宗風の刷新」も全く不要であり求めていなかったという事になります。そこには、私の理解する「覚醒運動の原点」など全く見る事が出来ません。

「宗風の刷新と祖道の恢復」を否定し、放棄していったい如何なる事を以て正信覚醒運動と言うのでありましようか。

彼らが正信覚醒運動を創価学会問題に限定し、法主を詐称して自分たちを擯斥に処した阿部師の非道は非難するが「大石寺安置の戒壇板本尊一体のみが大聖人出世の本懐、大聖人の御当体、功徳の電源・発電所である。我らは英邁な法主の出現を待つ」と言う主張の様で、宗門と全く同様に「法人正信会は本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈を否定している。戒壇本尊と唯授一人の血脈は教義の根本、絶対だ」と叫んでいる様ですが、ならば先ず、戒壇の本尊と称する板本尊一体のみを功徳の電源、全ての御本尊の頂点とランク付けする道理と文証を示して頂きたい。

更にその御本尊、教義裁定の全ての権能が唯授一人と称する血脈相承にあるとする、このような御法門を宗開両祖はどこに、どのように御示し下されておられるのか、その道理と文証を示した後、多いに論議しようではありませんか。

富士日興門流の原点は、日興上人身延離山の御精神にあります。「聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候わん事こそ詮にて候え」と、血涙の中に御聖地を離れ、「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」と、富士に大聖人の仏法を奠定されました。

此のことは、飽くまでも「御書と大聖人の御振舞いを根本とする」という教義、法門だてであります。

此の日興上人身延離山の御精神とその富士の立義の法燈を継承して行くならば、宗開両祖がどこにも仰せでない教義を造り出してまで、富士門流の唯一正統を他門に誇示し競う必要など全くないのであります。

今日、同じ正信覚醒運動と称しながら、別々の道を歩んでいらっしゃる御僧侶方にも再び「宗開両祖の祖道の恢復」「聖人の御義こ生きる」正信覚醒運動の道を、共に歩んで頂き度いと願ってやみません。

正信覚醒運動は、日蓮大聖人の仏法を護り、富士日興門流の法燈継承を願うものであり、末法の衆生の成道を願い、社会の安寧を祈る崇高な信仰活動であります。私達は日蓮大聖人の弟子、日興上人の遺弟として、法義の研鑽や信行の練磨、法燈継承とその道場の建立、護持など一つひとつに真摯に取り組み「聖人の御義に生きぬかん」事を共に求め、本日放映の尾張法難の先達方の信心に学び、富士日興門流の法燈継承を誓い、共々に精進して参ろうではありませんか。

最後に立正安国論の「弟子一仏の子と生まれて諸経の王につか事う、何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさざらんや」この御金言を我が身、我が胸に再確認致しまして、以上をもちまし終らせて戴きます。
弥々御身を御大切になさって御精進あらん事をお祈り申し上げます。
御静聴有難うございました。

法華講全国大会・京都市
「志に生きる」
平成30年5月27日
吉田輔道師

皆さんこんにちは。本日は心配された天気も諸天の御加護を頂戴し見事な好天となり、新緑が目に鮮やかに映える好時節の中、海外を始め全国から正信の僧俗が集い、ここ京都プラザ稲盛ホールに於いて、法人正信会全国法華講大会が盛大に開催されまして、誠におめでとうございます。心より御祝い申し上げます。

また、海外より韓国大韓寺の法華講衆の皆様には遠方から大勢ご参加され大変ご苦労様です。

※韓国大韓寺法華講の皆様、こんにちは。
(ハングク テハンサ ポファガン ヨロブン アンニョンハシミカ↗ ※語尾をあげる)
 今年も遠方からのご参加、本当にご苦労様です。
(オレド モルリソ チャンガ チョンマル スゴマヌ スミニダ)

私は、山口県山口市蓮興院でご奉公しております吉田輔道と申します。本日の意義ある大会に於いて講演の機会を賜りましたこと、恐縮の極みでございます。

さて、この覚醒運動が始まってから既に40年を超えております。その間、運動の進展と共に富士の立義を復興すべく、法門の研鑽や文献の考証が大いに進んでいることは実に有り難いことでございます。

参加された皆様方は、大会会場の入り口ホールに展示された大聖人の御消息や古文書類の貴重な文献をご覧になったことと思いますが、先ほどビデオで放映された内容にしましても、数々の御消息の正しい文献考証で、より深く大聖人のお心に触れることができるのは当に「祖道の恢復」につながることであり、信仰する私達にとりましてこの上ない法悦でありましょう。大いに御書に触れて信心修行の糧として頂きたいことを念願する次第です。

さて、本大会は「志に生きる」をテーマに掲げてありますが、そのテーマに沿って少々お話し申し上げたく存じます。

信仰の世界は勿論のことながら、世間の世界でも「志を持つ」「志を立てる」ことは人生においても大変大事な要素でございます。

世間の一例を挙げさせて頂きますと、私の住する山口県で日本海に面する萩市は、明治維新発祥の地として有名ですが、この地に維新の先駆けとなり松下村塾を開いた吉田松蔭がおります。僅か29歳にして江戸伝馬町の牢獄の露と消えますが、その遺志を引き継いだ十数名の門下生達も私利私欲のない大きな志ざしを以って維新を成し遂げております。

松蔭は、門下生達に次のような言葉を残しております。

①「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」
人を動かそうと思ったら、誠心誠意真心を持って接しなさい。そうすれば、必ず人は動きます。
②「学問とは人間いかに生きていくべきかを学ぶものだ」
学問とは、いい学校に行ったり、お金を稼いだりという 私利私欲のためではなく、何の為にどう生きていくべき か、公の志をもってその道を探り知るためのものである。
③「死して不朽の見込み有らばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込み有らばいつでも生く可し」
仮に自分が死ぬとしても、自分が為したことが後世まで残る(価値のある)ことであればいつ死んでも構わない。もし生き延びて大きな結果が出せるという見込みがあるなら、とにかく生き続けることだ。

これらのような教えを残しておりますが、こういう崇高な志と公で無私の精神を持って行動しておりました。

その志の精神と学問は私心が全く無く、己れの為ではない、公の為、国の為、民衆の為の学問でありました。それは国への恩や父母への恩にもつながっていたわけです。

吉田松蔭が自身の命を捨てる覚悟て日本国のために殉じた生き様は感動を覚え見事というしかございません。

世間でもこのように身命を捨ててでも大事な志の精神を披瀝して行動した人達がいたわけです。

とりわけ私達大聖人の仏法を信仰する僧俗に取りまして、世間の人達以上に大いなる志を立て、純粋な志を持って信仰に励むことは大変大事な要素になってまいります。

志について大聖人は「白米一俵御書・事理供養御書」で、
「ただし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すはなに事ぞと委細に考へて候へば観心の法門なり、観心の法門と申すはなに事ぞとだづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身の皮をはぐにて候ぞ。うへたるよに、これはなしては、けうの命をつぐべき物もなきに、ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。」(全1596ページ)
と仰せです。

「仏になるには志ざしが大変大事であり、その志ざしは観心の法門そのものである。自分の持ち合わせが何一つ無い中、自分の着ているただ一つの着物を奉ることは身の皮を剥ぐようなものであり、飢饉の時に自分の命をつなぐ僅かの白米を奉ることは、当に仏に身命を捧げることにほかならないことなのである」と御教示であります。

自分の命までも捧げる程の覚悟有る信心はとても出来るものではありません。大聖人の仏法を信仰する私達僧俗にとって、成仏を目指す上に於いて、篤い志を持つということがいかに重要であるかということです。

さて、当宗の歴史を振り返ってみますと、時の権力者からの弾圧によって熱原法難を始め、金沢法難・尾張法難・仙台法難等、沢山の法難が起こっております。また、大石寺法門そのものが歪められた悪しき暗黒の時代もありました。

現代は、権力者からの弾圧や、信仰の禁止や強制なども無く、信教の自由が憲法で保障されておりますが、そんな現代に住む私達には想像もつかない程の苦難の時代であります。

大聖人ご在世当時、鎌倉幕府は大聖人への竜口の頸の座や佐渡流罪を契機に檀越を根絶やしにしようとしますが、多くの人が信仰を捨てた中にもかかわらず、冨木殿・四条金吾殿等、わずかに残った檀越が厳しい弾圧を乗り越えて懸命に妙法を受持しておられます。

また、流罪地の佐渡に於いても大聖人のご威徳に触れて、阿仏房千日尼夫妻・国府入道御夫妻など篤信のご信徒が法華経の信仰に帰依しておられます。

そのような中、四条金吾殿を始め、冨木殿の使者等の檀越が鎌倉幕府の厳しい弾圧下にありながらも、ただ大聖人にお会いしたい、本因妙の仏法を求めたいという恋慕渇仰の志を持たれ、中には日妙聖人のように女性の身でありながら、命がけで山を超え、海を渡り北海の孤島佐渡島へご供養を携えて訪れておられるのです。

現代のように交通網が整備された便利な環境とはほど遠く、自分の足で歩いての旅ですから、往復でゆうに一ヶ月を超える長旅であります。ましてや女性の身にあっては尚更厳しい旅であったことでしょうし、当に「道の遠きに志の顕るるにや」と仰せの篤き志ざし以外なにものでもありません。

四条金吾殿の女房に与えられた「同生同名御書」に、
「はかばかしき下人もなきに、かかる乱れたる世に此のとの(殿)をつかはされたる心ざし、大地よりもあつし、地神定めてしりぬらん」(全1114ページ)

と、幕府の厳しい監視下にあって尊い志は大地よりも厚く、地神も全て知っておられると、その篤き志を賞賛しておられます。他にも志を賞賛されているお手紙が多々ございます。

極寒の地である佐渡において大聖人は、遠く渇仰恋慕する弟子達に対して『佐渡御書』をしたためられていますが、
「此の文を心ざしあらん人々は、寄り合いて御覧じ、料簡候て心なぐさませ」(全961ページ)

の一文を添えられ、信仰を志す人々のために冨木殿に託し、檀越一同へ与えて皆で読むように励まされています。

先ほどの四条金吾殿へ与えられたお手紙の冒頭にも「常によりあひて御覧あるべく候。」とあり、四条金吾殿や妻のみではなく、鎌倉の檀越が集まって宗祖より送られたお手紙を皆で拝読しておられた事が判ります。

当時、佐渡では紙は大変貴重なものでした。紙の裏にも認められ檀越を励まされる大聖人の深いお慈悲あふるるお手紙に、受け取った檀越は歓喜踊躍し、皆で寄り集まって拝読されたであろう往時のお姿が彷彿としてまいります。

皆様も御書に触れる機会が多々あると思います。一人で拝読する事も勿論大事ですが、寺院や法座の席において信仰する同志と一緒に拝読する事で、一人では決して気づかなかった宗祖の御心に触れることがあるのではないでしょうか。

また、病気や種種の苦労を経験し、信心の深まりと共に、以前拝読した御書がフッとより深い捉え方をすることが出来る、心底自分の心に沁み入るようなことがあるのではないかと存じます。

人により受け取り方は様々でしょうが、「なるほど、そのようなお心で仰せになっておられたのか、その様な拝し方が有るのか」とあらためて深い感銘を受ける事もあります。
 寺院や法座の席で信仰を共にする同志が集まり、皆で求め合い語り合いながら、大聖人のお手紙を通して一歩でも宗祖の魂に触れよう、お心に近づいて行こうという精神はとても大事なことでありましょう。

私達は、住職を中心として御本尊様の前に集い合い、御法門の一端を語り合いながら、大聖人への恋慕渇仰の志を確かめ合うことは、当に時空を超えて鎌倉時代の大聖人を身近かに感じ、相まみえることが出来ているわけでございまして、深い心の絆によって法悦の世界に浴することが出来ているのであります。時が経っても昔も今も変わらない豊かな信仰の世界観があるのです。

信仰の世界は自身の浅はかな知識や理屈で決して推し量れるものではありません。利害損得でするものでもない、打算的なものでもない、自身の欲望を満たすものでもありません。表の余分なものを脱ぎ捨て、取り払い、まっさらな自分の心の中を見つめ、仏性を確認していく、ただ大聖人への恋慕渇仰の篤い志で成佛を遂げようという純粋無垢な求道心の発露こそが大事でありましょう。

さて、上代に目を向けてみますと、三祖日目上人が、大聖人・日興上人のご精神を継承すべく布教されますが、京都への最後の天奏の途上、岐阜県・たるい垂井の地でごせんげ御遷化されるまで法華ぐづう弘通の御精神を堅持全うされています。

弟子の日郷上人に宛てたお手紙に「法命を継がるべく候」と仰せでございますが、「法命」とは法の命と書きます。即ち大聖人の法門の生命線、妙法蓮華経の信心のことです。この法命を後代に正しく受け継いでいく強い志と精神を歴代上人や檀越に託していかれたわけです。

当時大聖人門下への弾圧が非常に厳しく、法門が変質したり衰退していく状況下にあり、そのような中で日目上人の思いはただ「聖人の法門」、即ち富士の立義を明確に打ち立て後代に正しく継承するることにありました。まさに富士門の伝統とする精神であります。その精神が門下僧俗の土台となり、数々の法難を乗り越え、今日に法命が継承されてきているわけです。ズーッと繋がっているわけです。

この精神は檀越にも継承されていきます。富士門の法難の一つに、江戸時代末期までの150年間に亘って幕府の弾圧を受けた金沢法難があります。幕府禁制の中で主立った信徒十数名が牢につながれ、獄死した方も数名おられます。寺院もない、僧侶も居ない中、御本尊を柱や壁をくりぬいてご安置し、夜中密かに皆で寄り合ってお講を奉修し、大聖人のご消息や歴代上人のお手紙を依りどころとして懸命に信仰に励まれています。

そのような中、金沢法華講衆に沢山の「講」が誕生していますが、中には「臨終一結講」など、臨終を冠する講中が出ております。幕府禁制の中で、常に死を覚悟しながら臨終正念の信仰を目指していたかが窺い知れます。

金沢法華講衆の大多数の人達は、一生の間、本山の大石寺に参詣することも叶いませんでした。ただ大聖人や大石寺への恋慕渇仰の思いを持って富士の法門を求め続けておられたのです。

第二十六世日寛上人が享保9年に金沢法華講衆へ与えられたお手紙があります。

「かならずかならず信の一字こそ大事にて候。(中略)ふしてかならずかならず身の貧しきをなげくべからず、ただ信心の貧しき事をなげくべけれ」

と仰せですが、災難や身の不遇になろうと、決して信心が貧しくあってはならぬとの励ましのお手紙を送っておられます。
 第31世 日因上人が法華講衆に与えたお手紙に、

「各々北の国に居ながら大白蓮華山の仏法を持ち奉ること有り難く覚え候、いよいよ信心強盛に勤行唱題をつとめられ最後臨終の時を御覧有るべし(中略)斯の人仏道に於いて決定して疑い有ること無しの金言疑う可らず」

との一文がありますが、金沢法華講衆を、北国にいながらにして富士の仏法、本尊を持っている人であり、臨終をご覧なさい、と臨終正念と恋慕渇仰の信仰を賞賛されています。

これらのお手紙を、法華講衆が寄り合って拝読し、法悦の涙を流して歓喜され、富士門の信仰を強く深く持って乗り越えて行かれた姿が彷彿と目に浮かびます。

また、第39世日純上人のお手紙に、

「日常生活の様々な出来事は、善悪共に正面から受け止め、全て本因妙の南無妙法蓮華経のご利益と受け止めなさい。」

というお言葉があります。これは、法華経の教えの一番大事なところで、法華経の教えの基本は「変毒為薬」の教えであります。朝夕読経する寿量品の中に出てきますが、毒を藥に変える教えであり、どんな事も、良いことがあったとしても悪いことがあったとしても、全てが御本尊から頂戴した功徳であると受け止めなさいとご教示されています。受け止め方を変えれば、それは全て功徳になるわけです。

大聖人は「聖人御難事」に、
「良からんは不思議、悪からんは一定とをもへ」(全1190ページ)
「開目抄」に、
「諸難にもあえ身命を期とせん」(全231ページ)
と仰せのように、法華経の信心によって、必ず窮地に立たされることがある。それはすべて自身の成仏のための試練であり、善いことは不思議であり、悪いことは当たり前であると捉え、そして命を捨てる覚悟でその難を乗り越えることにより信心が決定する、成仏が叶うのであると仰せなのです。

法華経の信仰はそのような大事なことを悟らせ、道を示し、成佛へ導くため、人生の羅針盤となるために説かれた仏の最も大事で最も優れたお経であります。

これらのご教示は、弾圧を受けている金沢法華講衆にとって大いなる励ましになったことでしょう。金沢法華講衆の身の不遇を決して嘆かず、法難を受け止めて乗り越えて行かれた不屈の信仰心は、余程の肝の据わった強い志と、命を捨てる程の覚悟がないと出来ないことであります。この豊かなか信仰心に改めて敬服しますと共に、私達は鏡としていくべきでありましょう。

金沢法難は150年間の長きに亘って続きますが、私達が進める運動はまだ40年少々経過しただけです。それに寺院もあり、僧侶もいます。憲法で信教の自由も保証されていますし、実に恵まれた環境下にあり、金沢法華講衆に比べれば、おこがましくも法難とはと言い難いものです。

ただ、あえて申し述べるならば、近代の「依人不依法」のような法を依りどころとせず権威・権力を持つ人ににひれ伏したり、カリスマ的な人を依りどころとすることに決してなびかずに、「依法不依人」の法を第一として、ただ大聖人の仏法を護ろうという純粋な心で覚醒運動を進めてきました。

「浅きを去りて深きに就くは丈夫の心なり」(全965ページ)

とありますように、あえて厳しい道を選び、その結果擯斥処分となりました。これはただ単に大石寺から排斥追放されることだけでなく、信仰から何から一切合切を否定されたことになるのです。このことは丸裸になった赤子同然の状況であり、大海原に放り出され全て自ら独り立ちして行かねばならないことでありました。

そういう意味に於いて金沢法華講衆とはまた違って大変厳しい立場に置かれているとも言えます。大石寺・富士の清流復興という大きな命題に取り組んでおりますので、比肩するのは憚られますが、大変大事な運動に身を置いているとも言えましょう。

「方人より強敵が我をば良く為すなりけり」と仰せですが、阿部・早瀬宗門に擯斥追放されたことにより、あらゆる物を失って初めて覚醒され、正しい富士の流義や真実の財に気付く機会を得ることがことが出来たことは無上の喜びとしなければなりません。捉え方を変えれば阿部・早瀬師、池田創価学会は憎むべき仇ではなく、私達の成仏と富士の流義復興の大いなる善知識であると心得可きでしょう。

私達の運動の原点は「護法」の一点にあります。仏教説話に「仏身を見るか、法身を見るか」との話しがありますが、外側の形あるもの、有為転変する無常なものを求めていくのか、かたや内証の不変常住なる絶対に崩れ去ることの無い法体を信じ求めるのか。それは観心の法門か外道の法門かの違いであり、成佛か不成仏かの大きな違いになっていくのです。

もし自身の保身や欲得や組織や伽藍を守るためであるなら、仏法の埒外であり、法を汚し毀ることになって仏罰を受けることになりましょう。宗祖日蓮大聖人の血脈法水は堂塔伽藍に流れるのではなく、その住職、檀越の正しい信仰の胸中に流れ通わしめられるものであります。そして、法を護り正しい信心修行をする法華経の行者の一身の当体に本尊も涌現するのであります。

法を護ることが法に護られることであり、改めて、法を護る大事さを再確認した上で、大聖人様の仏法とな何なのか、何を私達に残されたのか、今一度本因妙の仏法の素晴らしさ、有り難さに報恩感謝され、「貴辺の信心は貴辺に任せ奉り候ぞ」と仰せのように、自分の持ち場で一生懸命妙法の灯りを灯すべく、一隅を照らすような人になって貰いたいと念願致する次第です。

本日ご列席の皆様を始め、全国法人正信会僧俗ご一同様の益々のご精進と覚醒運動のご発展をお祈り申し上げ、大会講演とさせて頂きます。

長時間のご清聴まことにありがとうございました。