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法要や大会での講演と法話を紹介

令和元年度法華講全国大会 講演
「恋慕渇仰の心で仏道精進」
令和元年5月19日
能忍寺住職 辻 満道

プロローグ

皆様こんにちは。

本日は新緑がまぶしく輝く好季に、ここ北海道・旭川市の「大雪クリスタルホール」に、海外を始め全国各地から正信の僧俗代表が集い、宗教法人正信会・法華講全国大会が盛大に開催され、まことにおめでとうございます。
心よりお祝い申し上げます。
ことに韓国・大韓寺法華講衆の皆様には遠路にもかかわらず大勢ご参加頂き、大変有難く存じます。

私はここ旭川から200キロほど北、車で4時間ほどに位置する天塩山能忍寺で御奉公させていただいております、辻満道と申します。
本日は「恋慕渇仰の心で仏道精進」と題しましてお話をさせて頂きます。

天塩町と能忍寺

私が住職を務めております能忍寺は、最北の町・稚内から日本海側を60キロほど南に下がった天塩町にあります。
北海道は菱形のような形をしており、その天辺が稚内です。稚内の東側がオホーツク海、西側が日本海となります。
流氷観光でお馴染みのガリンコ号は東側のオホーツク海で活躍しています。

栄養価が高く豊かな海といわれるオホーツク海では美味しい蟹やホタテが有名ですが、天塩では蟹ならぬカレイが。
ホタテならぬホッケがよく捕れます。
そのカレイも身の薄い、骨の硬い手のひらサイズの砂ガレイです。
ホッケという魚も、居酒屋で提供されるホッケはオホーツク海側の羅臼産とか、道北の利尻・礼文産の根ボッケ・真ボッケが有名ですが、天塩ではそれよりも小ぶりなローソクボッケです。

いずれにしましても天塩町は自然環境の厳しい、人よりも牛の方が多いという酪農と漁業の町でございます。

強い風と除雪

天塩町は風が強いことでも有名で、その風を利用した再生可能エネルギーの「風力発電機」が設置されています。
併しながら再生可能エネルギーとはいえ強い風は、そこで暮らす住民にとっては、かなりな、厄介物です。
能忍寺は除雪車が走る公道から約400メートルほど入ったところに在ります。
一本道ですがこの400メートルの除雪は私の仕事となります。
とても手作業では出来ませんので、除雪機で行うのですが、馬力が小さいと当然のこと時間がかかります。
初めは小さな8馬力のロータリー式除雪機でやっていたのですが、行って帰ってくるのに一時間、それを二往復すると、やっと車が一台通れるようになります。
しかし、風向きによっては自分で飛ばした雪が、そのまま自分に吹きつけることになり、凍える思いをしたことも少なくありません。
今は中古とは言え建設機械のタイヤショベルを使えるようになりとても楽になりました。
それでも、風が強いため吹雪の後などは、一面、真っ平らになってしまい、一日がかりの除雪も珍しくありません。

寒さも厳しい天塩町

私のご奉公する能忍寺は日蓮大聖人第七百御遠忌を記念して建立された第一号の寺院です。
昭和52年7月20日、御師範日達上人より能忍寺住職を拝命し、今日までお給仕に務めてまいりましたが気がつけば42年の歳月を積み重ねてまいりました。
落成式の砌り日達上人から「しっかりお護りするように」とお言葉を頂いたのが、つい昨日の事のようです。

僧侶として仏道修行に努めることは当然のことですが、置かれたさまざまな環境によって修行も異なります。
北海道は、北に位置していますから冬に寒いのは当たり前ですが、内地の寺院ではとても味わうことのできない修行。
その一つが朝のお勤めです。

能忍寺の本堂には体育館に設置するような大型温風暖房機が設置されていました。
しかし、暖房費も高くつきますし、カーテンも舞い上がるような温風のため、使用を中止しました。

天塩は毎年1月の大寒の頃から2月の半ば過ぎまでのほぼ1ヶ月間、最高気温が氷点下という真冬日が続きます。
当然本堂も氷点下です。
お勤めの為にオシキミを御供えしますが、冷凍庫に入れたように瞬く間に黒ずんで凍ってしまいます。私の両手も寒さで真っ赤になります。
その寒さの中での朝の勤行ですから、しっかりと気合いを入れて向かわねばなりません。
北海道でご奉公申し上げる僧道の一端です。

見かねたご信徒より「御本尊様・大聖人様も寒かろう。オライの爺婆も寒かろう」と薪ストーブの御供養いただき寒さを凌ぎましたが、現在は家庭に設置するようなFFの暖房機も併設して、シバレる日には夜通しシバレ無い程度に本堂を暖めております。

能忍寺での修行は、冬の寒さばかりでなく夏にも趣きがあります。
境内地は3,000坪という広さですので、夏の間は毎日のようにブラシカッターで草刈りの作業が続きます。
刈った草を積み上げてタイヤショベルで砂を掛け、堆肥にして畑に入れたり、植木を育てるのに使います。

能忍寺に参詣される方々を緑の環境で迎えたいと思い植樹に努めています。
当初は営林署からエゾ松・カラ松・とど松等の苗木を買って植えたのですが、土地が痩せている為か、潮風のせいか、全く育ちません。
横浜国立大学の宮脇昭さんの本に「北海道はミズナラ・エゾイタヤをメインにして、色々な種類を、混植するのが良い」とありましたので、雑木を種から育てる工夫をしたところ、ミズナラ・イタヤ楓(この樹液がメープルシロップです)・スモモ、千島桜、西洋スモモのプルーン、グミ、イチョウ、クルミ、タモ、桑、木瓜などの苗を育てて、植えたところ、結構根付き始め、楽しみにして居ります。

恋慕渇仰の心とは(法華経と御書から)

今大会のテーマは「恋慕渇仰のこころ~宗祖への想い~」と云う事でございます。恋慕とは「恋い慕う」という心のはたらきであり、ここでいう渇仰とは「喉が渇いて水を欲するように、仏さまとその教えを求める」という意味であります。

私たちが朝夕・読経の寿量品には「心懐恋慕 渇仰於仏 便種善根」。
「心に恋慕を懐き、仏を渇仰して、すなわち善根を種ゆべし」と説かれ、
仏様を恋慕渇仰することが成仏への道であると教えられています。

さらに、自我偈には「咸皆懐恋慕 而生渇仰心」。
「ことごとく皆、恋慕を懐いて、渇仰の心を生ず」と説かれ、
また、「令其生渇仰 因其心恋慕 乃出為説法」。
「それをして渇仰を生ぜしむ。その心の恋慕するに因って、すなわち出でてために法を説く」と説かれています。

 

すなわち「衆生を成仏に導くために、仏さまは姿を現わさず、仏を慕い仰ぐ心を生じさせ、その心が確かなものとなった時、仏さまは出現して法を説かれる」と。
寿量品には三度「恋慕渇仰」の心が大切であると説かれているのです。
それは仏さまと、その教えを恋慕渇仰することが成仏への唯一の道であるからです。

末法の法華経の行者である大聖人さまは「かつへて食をねがひ、渇して水をしたふがごとく、恋ひて人を見たきがごとく、病にくすり(薬)をたのむがごとく・・・法華経には信心をいたさせ給へ。さなくしては後悔あるべし」とご教示です。
現代語に訳せば「飢えている時に食べ物を求め、のどが渇いた時に水を欲しがり、恋しい人に会いたいと思うように、病気になって薬を頼るように、・・・この思いを以て御本尊様を信仰して行いきなさい。そうでなければ、必ずや後悔するだろう」と教えられています。
まさしくこれが恋慕渇仰の信心です。

龍ノ口から佐渡の島へ

かく述べられた末法の法華経の行者である日蓮大聖人も、久遠の仏さまと妙法を恋慕渇仰された御生涯でありました。

大聖人さまが「立正安国論」を時の為政者に奏進してから9年後の文永5年、蒙古国より国書が到来しました。
他国侵逼の難が現実のものとなったのです。
しかし、法華経による衆生の救済と、国の安泰を願う大聖人さまを、鎌倉幕府は世上を騒がせる者として弾圧しました。
時に文永8年9月12日のことです。
幕府はあたかも謀反人のように大聖人さまを捕縛し、佐渡流罪に処したばかりか夜中に龍ノ口の刑場にて頸を刎ねようとしたのであります。
しかし、仏天のご加護を賜り生涯最大の法難を乗り越えられました。その後、佐渡守護代・本間六郎左衛門重連の舘に預けられ、一ト月ほど逗留した後に佐渡へと配流されたのです。

大聖人さまは10月10日、相模の国・依智より本間家の家臣に伴われ、流罪の地・佐渡へと向かわれました。
依智からは久米川・高崎・碓氷峠を越え、険しい山道を歩き12日間をかけて越後の国・寺泊に着かれます。
このときの様子を大聖人さまは「これから大海原を越えて佐渡の国へ行く予定である。
しかし、なかなか順風が得られないために、いつの事になるかは分からない。
道中のことは、想像もつかないし、また筆で書きつくすこともできません。ただひそかに推し量ってください。
初めから、すべての困難はもとより覚悟の上で、いまさら嘆くことでもありません」とお述べです。

とはいえ、大聖人さまの佐渡ご流罪は門下僧俗にとって大きな事件でした。
ことに信心の定まらない僧俗は混乱し、「かまくら(鎌倉)にも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候」と仰せのように、多くの僧俗が退転して行ったのです。

大聖人さまは、法師品の「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」との経文。
安楽行品の「この経には世間の怨みが多く、信仰することは難しい」との経文をしばしば引用され、法華経の難信難解たることを教えておられましたが、「我が弟子等の中にも、兼ねて聴聞せしかども、大小の難来たる時は今始めて驚き肝をけして信心を破る」という有り様であったようです。
しかし、大聖人さまは「法華経のゆへに流罪に及びぬ。今死罪に行はれぬこそ本意ならず候へ」と仰せられ、法華経の教えを貫きとおす覚悟に立たれていたのです。

その大聖人さまは門下僧俗に「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」と仰せられ、上行菩薩の御自覚のもと、末法の一切衆生を成仏に導く大曼荼羅本尊を御図顕あそばされました。

大聖人さまは流人の身ですから、そのご生活は「堂とは名のみで、屋根の板はすき間だらけで、四方の壁は破れ崩れ、雪が堂内にまで降り積もって消えることもない。このような所に敷皮を置き、その上に蓑を着て、夜を明かし、日を送った」と述懐されています。

佐渡流罪と門下のご信徒

そのような厳しいご生活ではありましたが、大聖人さまの法華弘通の志はいささかも退くことなく、傍らでお給仕する日興上人等を督励されて、佐渡の国に教えを弘めて行かれました。

佐渡で大聖人さまの教えにふれて門下となった僧俗は数多居られますが、ことに有名なのは阿仏房でありその妻千日尼であります。
阿仏房は順徳上皇に随従した北面の武士と伝えられております。
阿仏房の阿仏とは「阿弥陀仏」の略称と考えられ、また奥さんである千日尼の千日も、「千日念仏」の意かと思われますので、それはそれは熱心な、自他共に認める念仏の強信者であったようです。

大聖人さまは、専ら西方極楽浄土への往生を説き、法華経などの教えを捨て置けという法然等の念仏信仰を批判され、天変地異や飢饉疫癘、世上不安の要因は念仏専修にあると主張されていましたから、阿仏房や千日尼も目をそらし、耳を塞いだに違いありません。

念仏の強信者であった阿仏房夫妻はきっと、我が「阿弥陀仏」の仏敵・法敵との思いを抱き、よく語られますように、刀にモノを言わせるというような強い思いで大聖人さまに接したことでしょう。
しかし、やがて大聖人さまのまっすぐな人柄はもちろんのこと、道理に貫かれた法華経の教えにふれて「ああ、ここにはたしかな真実がある。この上人に託してみようか」と思われたのでしょう。
ご夫妻の阿弥陀仏への恋慕渇仰の心は
法華経と大聖人さまへの恋慕渇仰の心となったのです。

そのご夫妻のご信心に大聖人さまは「阿仏房に櫃を背負わせて、夜中にたびたび足を運んでいただいたことは、けっして忘れることはできない。私は正直、亡き母が佐渡の国へ生まれ変わって、自分を助けてくれていると思った」と述べられています。

阿仏房身延山へ登山

阿仏房の妻千日尼に宛てられたお手紙には「遠く離れてしまえば、心には忘れずとも次第に疎略になるものです。それなのに貴方は、去る文永11年より今年弘安元年までの五か年に、この身延山へ佐渡の国から三度までも、夫の阿仏房を遣わされました」と愛でられています。
阿仏房は九十歳ともいわれる高齢でありながら、大聖人さまを恋慕渇仰の心で佐渡から身延山に三度も登山をされたのです。

三度目の身延参詣については「7月27日の午後4時頃、阿仏房のすがたを見つけて、『尼御前は無事でおられるか』『国府入道殿はどうしているか』と真っ先に聞きましたところ、『二人とも元気でやっています。国府入道殿は途中まで一緒に来たのですが、早稲の取り入れが近づいたので、子供が居ない入道殿は、ああ、残念だと云いつつ、引き返して行かれました』」

と参詣の模様をつづっておられます。

国府入道と是日尼

阿仏房夫妻と共に佐渡で門下となられたのが国府入道夫妻です。
その夫妻の真摯なご信心に対し、大聖人さまは「皆が私を敵視している状況の中、尼御前と入道殿は、人目をはばかってこっそりと夜中に食物を届けてくれたり、役人に抵抗をして、私の身代わりにもなろうとしてくれた。
それ故、佐渡国はつらい思い出が多かったけれど、いざ赦されて帰るとなると、剃ったはずの後髪が引かれるような、またふみ出した足も返ってしまうような、そんな気持ちになってしまった」と率直なお気持ちを述べています。

また、国府入道は三度ほど身延に参詣しています。
その登山の姿について是日尼御書には「去年、佐渡ノ国から国府入道が見えた時は、まるで夢のようであったが、また今年も来てくれて、須頭檀王が阿私仙人につかえたように、一ト月にも及んで、菜を摘み、水を汲み、薪をとってくれた。本当に有難い」と語っておられます。

阿仏房夫妻や国府入道夫妻以外にも佐渡で檀越となられた方々は沢山おられます。
私たち末弟は、それぞれのすばらしい信行を学び、自らの信仰の鏡として行かねばならないと思います。

佐渡からの手紙

大聖人さまは佐渡でのご生活に、種々難儀されたことが想像されますが、門下への手紙には「この手紙は富木殿のご一門や、四条三郎左衛門殿、大蔵塔の辻十郎入道殿たちや桟敷の尼御前など、それぞれご覧になるべき人々へしたためたものです」とあり、
また、「佐渡の国は紙がありません。その上、それぞれに申し上げるには、もし一人でも洩れるようなことがあれば恨みに思うこともあるでしょう。志しのある人々は皆で寄りあってこの手紙をご覧になり、考えをめぐらして、それぞれのお心を慰めて下さい」とお述べです。

紙が乏しい佐渡より檀越を想われて出されるお手紙、鎌倉などに残された弟子や檀越は、佐渡から届けられた大聖人さまのお手紙を皆で読み合わせながら信心を奮い起こし、恋慕渇仰の心をいっそう深められ、再び大聖人さまにお会いしたいとの想いを強くされたことでしょう。

佐渡へ向かう檀信徒

佐渡に配流された大聖人さまへの恋慕渇仰の想い断ち難く、はるばる鎌倉から佐渡に渡られた門下僧俗もおられます。
そのすべてをご紹介することはできませんが、鎌倉在住信徒の棟梁ともいうべき四条金吾殿と、大聖人さまからその信心を愛でられた日妙聖人について簡略にお伝えしたいと思います。

四条金吾殿

鎌倉における最も有名な門下の檀越として四条金吾殿がおられます。皆さまご存じのように、四条金吾は常に大聖人さまをお守りされ、龍ノ口法難では追い腹を切ろうとした信心強盛な方です。
四条金吾は流人として佐渡に流された大聖人さまが、どこでどのような生活をなされているのか、心配で心配でどうにもならず、年が明けるやすぐに塚原の大聖人さまのもとへ下人を遣わされました。

大聖人さまはその四条金吾に開目抄を託され
「日蓮といゐし者は、去年の年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此れは魂魄、佐渡の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人いかにをぢずらむ」
とお述べです。

開目抄を賜った四条金吾は下人から伝えられた
「塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし。上はいたま(板間)あはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし」
という大聖人さまのご生活に、恋慕渇仰の想い止みがたく、宮仕えの身でありながら、一千里に及ぶ山海の道のりをものともせず、佐渡に大聖人さまを訪ねられたのです。

四条金吾と佐渡で面談が叶った大聖人さまは大いに喜ばれ、四条金吾の奥さまに「頼もしい下人もなく、このような物騒な時世に、夫君をここまでお遣わしになった志ざしは、大地よりも厚く、虚空よりも高い」と仰せになり、夫である四条金吾を佐渡へ使わされた奥さまの信心をお誉めになりました。
そして、なおいっそう夫婦合力して信仰に励むよう勧められ、この度の善根は必ず仏天が御照覧であることを教示されています。

日妙聖人

大聖人さまの導きによってひたむきに法華信仰に励んでおられた鎌倉のご婦人がおられます。
その名は日妙聖人。
届けられたお手紙を拝読して、何としても大聖人さまにお会いしたいとの想いがつのり、幼き乙御前を夫に預け、一心に佐渡をめざして歩き始めてしまいました。
ただただ、大聖人さまへの恋慕渇仰の一念からであります。

大聖人さまは日妙聖人に「相州鎌倉より北国・佐渡の国、其の中間一千余里に及べり。山海はるかにへだて、山は峨々、海は濤々、風雨時にしたがふ事なし。山賊・海賊充満せり。すくすく(宿宿)とまりとまり、民の心虎のごとし犬のごとし。現身に三悪道の苦をふるか」と心から、いたわられました。

鎌倉から佐渡への道のりが、如何に困難であり、大変であるか、身をもって知る大聖人さまは日妙聖人の労苦をねぎらわれたのです。
末代のしかも女人の身でありながら、自界叛逆難の、二月騒動の余韻さめやらぬ世上不穏な中、幾山河を乗り越えて、しかも夫と幼い乙御前を残して法華経の行者を訪ねられたその厚き信仰を激賞され、その一挙手一投足こそが一念三千の成道であるとして、不軽菩薩の義になぞらえられ「日妙聖人」との聖人号を授与されたのです。

恋慕渇仰の心は求道心

以上、佐渡において仏縁を結ばれた先達と、鎌倉から佐渡に向かわれた先達の尊い恋慕渇仰の信心をうかがってまいりましたが、その恋慕渇仰の心とは求道心に他なりません。
仏典には雪山童子が半偈のために我が身を羅刹に供え、須頭檀王が阿私仙人に一千年のお給仕、薬王菩薩が臂を焼いての修行等々の姿が説かれていますが、その奥底には「如何なる困難があろうとも仏法を求めてやまない」という強い求道心が存在しているのです。この求道心は素朴な恋慕渇仰の心から誕生し、たしかな成仏への道に誘うものであります。

仏法を求める私たちの恋慕渇仰の心はさまざまなかたちで表現されます。
日々の勤行・唱題につとめること、
菩提寺に参詣して信行を深め、供養をささげてその護持に努めること、
自宅の仏壇を浄めること、
お灯明をともし香華を捧げて仏法を供養・讃歎すること、
御書に親しんで大聖人さまの教えを学ぶこと、
まさに仏道修行のすべてが恋慕渇仰の心を基本としているのです。

この恋慕渇仰の心は私たちの人生をより良いものに導くものともなります。
大聖人さまの門弟として恥ずかしくない生き方をしっかりと意識すれば、学業や仕事、趣味や教養、
社会への貢献やボランティアなどにも真剣に取り組むことになり、たしかな功徳を積むことになるでしょう。

結びに

恋慕渇仰の心は、日蓮門下僧俗の信仰の心得でありますが、その姿と取り組みは、まったく等しいというものではなく、門下僧俗一人ひとりの置かれた環境や想いによって異なりがあるものです。

たとえば、私のご奉公申し上げる能忍寺では信徒の数も少なく、
私の非力もあって折伏弘通が広く展開することはできませんでした。
それでも入仏式の砌にご師範日達上人から、「しっかりとこの能忍寺を護り、仏道に精進せよ」と命じられたお言葉は私の心の柱です。

どうしたら能忍寺を護持し、わずかな信徒ではあるけれども、導いて行くことができるのかと、本当に悩みました。
その結果、20年ほど前でしょうか、僧道に傷をつけることがないことを第一に、「高等学校の警備とボイラー管理の仕事」につきました。能忍寺を離れて兼業することはできませんし、お寺を護り家族を養って行かねばならないという苦渋の決断でした。
もちろん結婚以来、家内はズーッと仕事をして、支えてくれていました。
現在、高校での仕事は止めましたが、在俗の仕事に就きながらお寺を護り、ご信徒と共に、ささやかに正信覚醒運動に励んで来た私の歩みは、私なりの恋慕渇仰の心です。
これからも求道心を鍛えて仏法の護持を願い、生涯、覚醒運動に精進して行きたいと覚悟しています。

さきほど述べましたが、御在世の先師先達は、熱い恋慕渇仰の心をエネルギーに成仏への道を歩んでいかれました。
現代に生きる私たちもそのお姿を手本としてまいりましょう。
まずは恋慕渇仰のこころで、大聖人さまとその教えを求めて、菩提寺にしっかりと参詣し、信行を捧げて仏法を聴聞することが肝要です。
なぜかならば、菩提寺への参詣こそ大聖人さまへの恋慕渇仰の想いそのものといえるからであります。

さあ、全国の法華講の皆さん、来る二年後の令和三年には大聖人さまご生誕八百年を迎えます。
大聖人さまへの恋慕渇仰の想いを菩提寺の御宝前に御供えいたしましょう。
富士日興門流の再興を願う正信覚醒運動にいっそう精進し、互いに力を合わせて新たな時代に正法を継承してまいりましょう。
以上申し上げまして本日の講演とさせていただきます。
ご清聴まことにありがとうございました。